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Channel: 市民が見つける金沢再発見
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左岸は石川郡、右岸は河北郡、田上の駅は・・・

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【浅野川左岸と右岸】
金沢城の石川門は石川郡、河北門は河北郡を向いているからといわれていましたが、一昨年、野々市町が市制施行により、石川郡は昔の話になってしまいました。もう何年かすると“石川県にあるから石川門や”なんていう人は、四方やいないと思いますが、1190年間も続いた県名の元といわれる由緒ある郡の名が消えてしまいました。時代ですかネ・・・。

市民が見つける金沢再発見 (石川郡向きの金沢城石川門)

弘仁14年(823)加賀郡が江沼郡と共に越前から独立し加賀の国になります。加賀郡は、越前国の時代、手取川以北から大海川(免田)以南が郡域でしたが、石川郡を分立した後は浅野川以北から大海川以南となります。


(現在も大海川は加賀と能登の両地方の大まかな境界となっています。)


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(河北郡向きの金沢城河北門)


加賀の国になると、石川郡を分立した加賀郡は後に河北郡とも呼ばれるようになり、江戸時代には正式に河北郡と改称され、現在は、内灘町と津幡町だけが河北郡と呼ばれています。


石川郡は、加賀郡から分立し河南郡と呼ばれていたそうですが、後に廃止され石川郡になりました。郡域は、浅野川以南、手取川以北で、現在の野々市市と白山市で石川郡は消滅しました。


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(浅野川大橋・左岸が石川郡側)


≪浅野川の左岸右岸昔話・田上の駅≫


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(突き当たりの山の下が田上町)

浅野川の右岸の田上にあったという”田上の駅“が実は左岸の今の浅野川大橋辺りだったのではないかという、大昔の話です。


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(右岸の田上町は河北郡でした)
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(今の田上町)

古代律令国家は幹線道路に10km~12kmの間隔で駅家(うまや)を設け、駅にはだいたい5頭ぐらいの馬が常時置かれていたことが“律令”を具体的に運用するための施行細則「延喜式」に記されているとかで、そのなかに「田上駅 加賀国加賀郡 馬五匹常置」と記されているそうです。


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(現在の田上地内・この先が金沢外環状道路)


(加賀の国の駅は、朝倉の駅(加賀市)潮津の駅(加賀市片山津)安宅の駅(小松市)比楽の駅(白山市美川)田上の駅(金沢市)深見の駅(津幡町)横山の駅(かほく市宇ノ気)で地図では田上は山側に入り込んでいて距離も長い)


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(田上地内の金沢外環状道路)


その“田上の駅”というのは、今の金沢大学の近く、浅野川右岸の田上町だということになっていますが、”二俣街道“の起点の若松町より一つ奥にはずれたところで、現在は“金沢外環状道路(通称:山側環状)”が出来、便利になりましたが、つい先ごろまで、山奥に向かう不便なところで、古代に駅家があったとは考えにくいところです。


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(現在の橋場町交差点)


どうも律令時代、現在の浅野川左岸、現在の橋場町は田上郷の郷域で、地形的にも小立野台の先端部、山崎凹市といわれた交通の要衝で、商工業者も集住し、自然に市場が立ったといわれていて旧田上郷の谷頭にあたるこの辺りが“田上の駅“であったという説があります。


後に、応仁・文明の乱の北陸代理戦争の様相を呈した富樫氏が兄弟で争った“文明の一揆”の頃、“田上”の地名を冠した、兄富樫政親側近田上兵部の城が現在の橋場町近辺、多分、久保市乙剣宮の辺りにあったという伝承があります。


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(久保市乙剣宮)

一向一揆軍が勝利する“長亨の一揆“では、田上兵部が高尾城に脱出し、一向一揆軍が田上兵部の城に入り、ここを山崎陣地としたといわれていますが、どうも、この辺りも大昔から”田上“と呼ばれていたようにも思われるところからも、現在は”田上の駅“橋場町説が有力なようです。


参考文献:「消された城砦と金沢の原点を探る」著者辰巳明・発行能登印刷,昭和62年など


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