【ほっと石川・鳳珠郡穴水町】
3月16日、年に3回の“ほっと石川観光ボランティアガイド”の今年度最後の研修が能登の穴水町で開催され参加しました。県内から過去最高の180人もの参加者だそうです。さすが、歴史好きの観光ボランティアガイドの皆さん、知る人ぞ知る”歴史の町穴水”への期待の大きさを窺わせます。
穴水は金沢からバスで1時間半、今まで何回も穏やかで珍しい“ぼら待ち櫓”が見える海岸線を走り過ぎることはありましたが、来るのは、若い頃に釣りに連れて来てもらった時、数年前名物の牡蠣を食べに来た時くらいで、お寺や歴史探訪は始めてです。
(七尾北湾・かすかに見える"ぼら待ち櫓")
(17日の北国新聞記事)
飛鳥時代に開創された真言宗の古刹、「宮崎寒雉」の茶釜や梵鐘で知られる鋳物の里中居の鋳物館、古代から近世、現代まで、加賀藩八家長家の始祖長谷部信連の史料なども集めた穴水歴史民俗資料館を回り、短時間でしたが、能登の奥の深さに感じ入り、また来たくなる思いを背負って帰りました。
(明泉寺)
ガイドは、穴水町ふるさと案内人「里ナビ」の皆さんで、初っ端から今までにあまる見たことも無い佇まいの白雉山明泉寺に案内され、身のすくむ思いがしました。大昔、白雉3年(652)に開創という真言宗の古刹で、境内の国指定重要文化財の石塔五重塔やお堂にある遠い昔の仏像が遺存するのを目の当りにし、表現しがたい恐れを感じていました。
お堂では、普通は見られない「紙本着色明泉寺絵図」という巻物を運よく見ることができました。この絵図は室町末期の明泉寺の伽藍の様子が描かれていて、ご住職に丁寧に説明して戴きました。ご本尊は千手観音で、数多くの古い仏像を拝観しました。行基菩薩や弘法大師の作仏が多いとパンフレットに書かれています。
(「紙本着色明泉寺絵図」には、“頼朝の墓”と言われている石塔群が描かれています。直接見る時間がなかったのですが、現在も大小70余基の五輪塔や宝篋印塔が立っていて、古来より「鎌倉屋敷」とよばれ能登最大の中世墓地だそうで、生前仏事で頼朝の死後の冥福を祈って建てられたものらしく、五輪塔が“頼朝の墓“だそうです。どうもこの辺りは当時北条氏の土地だったとか…。)
(来迎寺)
勅定山来迎寺は、嵯峨天皇の勅願により弘仁5年(814)創建された真言宗の古刹で、こちらも古く1,200年も前のお寺で、翌弘仁6年(815)「勅定山」の山号を賜り「勅定山青竜寺」と号したといいます。文治2年(1186)には、穴水町の領主となった長谷部氏の祈祷寺とされたとき再建し、宇留地関寺の阿弥陀如来を迎え本尊とし、寺号を来迎寺と改めたといいます。
(観音堂と十一面観音)
(観音堂に安置される十一面観音は、信連が高倉天皇から賜ったといわれ、かぶとに忍ばせていた1寸8分の守り仏だそうです。)
中居の鋳物の歴史は平安時代末まで遡るそうです。前田利家が中居鋳物師を統括支配し,武具や金具などの日用品の鋳造を命じていたそうです。また、穴水町歴史民俗資料館は、古代から、近世、現代まで、穴水の歴史や文化が集積されていて、一目で分るようを展示されています。
(長谷部神社の横に穴水歴史民俗資料館がありました)
はじめて見て歩いた穴水町でしたが、“駆け足旅”短時間だったからか、年なのか、多分能力不足だと思いますが、十分消化出来ていませんので、この辺にします。何度も言いますが、未練たっぷり“また来て見たい”と思わせる興味深い穴水町でした。
締めの会長の挨拶で「先人の心を大切のする町」とおっしゃっていましたが、私も同感です。
そして、自然体でご案内戴いた、穴水ふるさと案内人「里ナビ」の皆さん有難うございました。