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加賀尊王攘夷派の学者千秋順之助①

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【常盤橋→天神橋・旧味噌蔵町】
NHKの大河ドラマ「八重の桜」は今度の日曜日3月24日“蛤御門の戦い”だそうです。この変事は“蛤御門の変“といわれ、文久3年(1863)8月18日の政変で失墜した長州藩は藩主父子の名誉の回復と京都から追放された尊王攘夷派公家7名の赦免を願い出るが許されず、元治元年(1864)7月19日、長州藩が京都での勢力回復をねらい引き起こした変事で”禁門の変“ともいわれています。

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(前田慶寧公)


加賀藩では、世嗣慶寧が在京中、攘夷の立場で長州の代弁者として幕府に建白書を出したといわれ、また、京都の加賀藩邸は長州藩邸に近いこともあり、慶寧側近の中には、長州勤王派と通じ、天皇を近江海津(加賀藩領)へ移し共闘する密約も交わしたと伝えられています。


(国許では、保守派年寄などは、慶寧や側近の動きをやめるよう強く進言し、藩内は二派に別れ混乱したといわれていますが、慶寧は尊王派側近を守り年寄たちを諌めたといいます。)


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(蛤御門)


長州藩が幕府連合軍と京都御所蛤御門・堺町御門附近で戦い、京都の中心地が激戦地になり、戦いは一日で終り長州藩は敗北しますが、7月19日朝、長州藩邸等から出火した火災による被害は,21日に鎮火しますが“どんどん焼け”といわれ800ヶ町,27,000世帯,そのほか土蔵や寺社などが罹災し大惨事となりました。


長州藩が京都への出兵に際し、加賀藩の尊攘派が、御所警備のため上洛していた加賀藩の世嗣前田慶寧を擁して、長州藩に呼応しようとしたが、“蛤御門の変”の前夜、在京藩臣が集まり大激論の果て、京都を退去する事に決しました。


(金沢では、この一連の変事を、蛤御門の変に関わっていないためか? “元治の変”または”加賀元治の変“さらに”元治甲子の変”と書いたのも見たことがあります。)


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(前田慶寧公の陣羽織)


この顛末は、以前に書いた松平大弐の自刃、加賀尊攘派の一斉弾圧、戊辰戦争までおよびますので、それはまたの機会にして、今回は、撤退を主張した慶寧の侍講千秋順之助について進めます。



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(青のところ、味噌蔵町藪の内が生家)

千秋順之助は、字は藤篤(ふじあつ)号は有磯、顧堂など。千秋主殿助と共に前田利家公に仕えた弟千秋喜兵衛の6代目宗助範為の次男で、味噌蔵町藪の内で生まれ、幕末加賀藩の俊才といわれ、藩校明倫堂より江戸昌平黌に学び舎長になります。


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(家紋三柏)


弘化2年(1845)藩の要請で帰藩、明倫堂助教、世嗣前田慶寧の侍読も兼ねた尊王攘夷派の学者で、数少ない加賀藩尊攘派の中心人物でした。その所論は尊王の大儀に基づき、よく時代の損得を論じ、ついには幕府の衰退を洞察し藩の進退を明らかに決めるよう主張したといいます。 


(つづく)


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