【常盤橋→天神橋】
卯辰山の天満宮は、慶応3年(1867)卯辰山開拓の折、卯辰山“鳶が峰”に竹沢御殿の天神さんを遷宮し、卯辰山撫育所の守護神としました。遷宮は8月28日に地鎮祭を行い、市民の御冥加という勤労奉仕などもあり、一ヶ月にも満たない9月23日(11月説もあり)に祭神(官公の画像)をお遷しします。
(卯辰山開拓とは、14代藩主前田慶寧公が、福沢諭吉の「西洋事情」に触発され、卯辰山に養生所や撫育所、そして娯楽施設、さらには山麓に工場群を開発した一大プロジェクトですが、激動の幕末、加賀藩が民心を惑わすために行った姑息的政策だといわれていたりして、未だによく分からない開発事業です。)
(創建時の卯辰天満宮)
天満宮の神殿には祭神天満天神、相殿大国主命、少彦名命の三座が国君(慶寧公)の命により鎮座し、遷座には7日間に渡り、町々は獅子舞や作り物、にわか、囃子などで賑わい、かってない盛大な金沢惣祭(盆正月)だったといいます。町にはのぼり旗がたなびき夜ともなれば軒々には見事な提灯が灯り人々は浮かれ賑わったそうです。
(大国主命(国土開発の神)は、少彦名命(医薬の神)と共に山造り、島造りなど国土開発や農業技術の指導普及、病気を治し薬である酒造りの技術も広めた国造り神といわれています。)
(現在の天満宮)
明治元年(1868)9月勅許により、天満宮は号を村社卯辰神社に改めますが、祭神の画像は、官公の御自画御自讃の一幅、他に先代(斉泰公)が江州今津甚右衛門宅に御手植した松で彫刻した官公の御木像が同座したと明治2年2月に新刻された開拓山人著(内藤誠左衛門)の「卯辰山開拓録」に記されています。
(天満宮の額)
開拓事業は、明治元年(1868)春、卯辰山の撫育所へ笠舞のお救小屋を移した後、その年の12月には、藩の財政の行き詰まりもあり、時代が大きく変わったことによるものか、藩の事業は中止になりました。
(明治3年(1870)7月付の“恐れ乍”で始まる文書がありますが、要約すると茅葺の天満宮は尾張町から見ると築2年10ヶ月の建物であるのに、もう風で壊れ見苦しいので修繕しては如何か等々と書かれていて、書いたのは生国西京の竪町入口亀沢丁の商人だといいます。そんな文書を見ると計画的な安普請・・・?いや~只、金が無かっただけかも・・・?)
(天神橋から山の上の卯辰天満宮)
明治3年12月には、参道の咸泉丘に北越戦争で参加戦死した人々の招魂社が建立され、やがて招魂社が“鳶が峰”の主役に取って代わります。招魂社の拝殿は金沢城二の丸御殿の能舞台を、門も同じ二の丸御殿の唐門が移築され、拝殿には慶寧公の筆による「顕正」と書かれた額が掲げられたといいます。
(招魂社の運営は藩知事(慶寧公)の寄進によるものでしたが、明治4年7月廃藩置県後は有力者の私費により運営されます。明治34年以降は「官祭招魂社」となり、昭和10年(1935年)出羽町に遷宮され、昭和14年(1939年)石川護国神社に改称されました。なお、能舞台は中村神社に唐門は尾山神社の東門として現存しています。)
(招魂社の門・現尾山神社東門)
さらに卯辰神社は、明治40年(1907)に、当時殿町にあった郷社豊国神社が、隣接地に遷宮され合併します。現在、天満宮(卯辰神社)は史跡ですが、卯辰山三社(豊国神社・卯辰山天満宮(卯辰神社)・愛宕神社)の中央に在り、今も市民の崇敬を集めています。
(豊国神社)
(卯辰山三社とは、愛宕神社、卯辰天満宮(卯辰神社)、豊国神社の三社をいい、豊国神社は旧郷社で主祭神は豊臣秀吉公。明治元年(1868)の神仏分離令の折、観音院を主神秀吉公として豊国神社に改称し、後に村社である愛宕社を合祀し、明治19年(1886)、氏子地の殿町に移しましたが、明治40年(1907)、現在地に移し卯辰神社を合併しました。)
(愛宕神社)
≪余談1≫
昭和48年(1973)2月23日の新聞記事に、卯辰神社神殿の日本刀と掛け軸が盗難に遭いそれが富山で見つかったことが書かれています。14代藩主慶寧公が奉納した菅原道真公の真筆自画像と伝えられるもので、本物かどうかは明らかではありませんが、梅鉢の紋入りの三重の桐箱入りで、一緒に従四位土肥肥後守なるものの真筆の鑑定書も3通入っていたといいます。また、日本刀は、加賀の国の名工“清平作”の御神刀とかで、これは京都で見つかったと報じられています。
(卯辰三社下の花菖蒲園)
≪余談2≫
明治の卯辰神社は、文学の舞台として、大正8年発表の「所縁の女」や五木寛之が昭和43年~45年発表した「朱鷺の墓」に、この辺りの様子が美しく素敵に書かれています。
“…一重の咲く頃には、枝の花の中から、紫の医王山が見え、遥かに聳えて雪の白山が眺められようと言う処でね…”
鏡花の「所縁の女」より
(卯辰三社の図)
参考文献:開拓山人著「卯辰山開拓録」明治2年2月新鐫・十月社製作「浅野川年代記」平成2年発行