【兼六園】
13、滝を立てる順番
《原文》滝を高くたてむ事、京中にハありがたからむか。但内裏なんどならば、などかなからむ。或人の申侍しハ、一条のおほぢと東寺の塔の空輪のたかさは、ひとしきとかや。しからば、かみざまより水路にすこしづつ左右のつつみをつきくだして、滝のうへにいたるまで用意をいたさば、四尺五尺にハなどかたてざらんぞとおぼえ侍る。
又滝の水落のはたばりは、高下にハよらざるか。生得の滝をみるに、高き滝かならずしもひろからず、ひきなる滝かならずしもせばからず。ただみづおちの石の寛狭によるべきなり。但三四尺のたきにいたりてハ、二尺余にハすぐべからず。ひきなる滝のひろきハ、かたがたのなんあり。一二ハ滝のたけひきにミゆ。一にハ井せきにまがふ。一にハたきののどあらはにみえぬれバ、あさまにみゆる事あり。滝ハおもひがけぬいはのはざまなどより、おちたるやうにみえぬれバ、こぐらくこころにくきなり。されば水をまげかけて、のどみゆるところにハ、よき石を水落の石のうゑにあたるところにたてつれバ、とをくてハ、いわのなかよりいづるやうにみゆるなり。
(瓢池と翠滝)
(虹橋から分流の噴水の間の遣水にある布滝)
(訳:滝を高く立てることは、京中(京都)では難しい。但し、内裏(天皇に住む御殿)などならばそうとも限らない。或人の申したことには、一条の大路と東寺の塔の空輪(空間?)の高さは等しいのです。そうすると、上の方から水路に少しずつ左右の堤を築き下して、滝の上に来るまで用意をし、四五尺の高さには必ず立てられるであろうと思われます。(平安京の一条の大路は、今の右京区の北野辺り・東寺は、中京区の京都駅辺り・距離約6km)
(京都の東寺五重塔)
また、滝の水落の巾は、高下にはよらないのではないか。自然の滝を見ると、高い滝は必ずしも広くなく、低い滝でも必ずしも狭くはなく、ただ水落の石の寛狭(広さ狭さ?)によるのです。但し三四尺の滝になると、二尺余より過ぎてよくない。低い滝の広いのは、色々と難がしい、一つには滝の丈が低く見え、一つには井堰と紛らわしい。一つには滝の咽喉が明らかに見えるので、浅い様に見えることがあります。滝は思いがけない岩の間から落ちた様に見えると、木暗く奥ゆかしい、だから水を流しかけて、咽喉が見える所には、よい石を水落の石の上に当る所に立てたならば、遠くからは岩の中から出る様に見えます。)
国宝東寺の五重塔は、京都のシンボルとなっている塔で、高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇ります。天長3年(826年)空海により、創建着手に始まるが、実際の創建は空海没後の9世紀末で、雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644)に徳川家光の寄進で建てられたものです。
(瓢池の親滝(大滝)の翠滝)
兼六園全史の「作庭記」解説によると、「作庭記」の編者は京在住者であるため、京都付近を題材として説いてあるところが多い。とりわけ本項は京の南北の落差の少ないことを云っています。京都は明治初期の琵琶湖疏水が出来るまでは何も出来ない。と云い、極端な枯山水等の作庭発達も容易に頷けるというのである。と述べています。また、高い滝は巾広くても高所ゆえに細く見え、低い滝は細巾であるが巾広く見えるものである。と云い、これは作庭上短を補うため滝の落口を曲げるとか、隠蔽するとか、編者は心憎いほど上手く書いている。・・・・とあります。しかし、解説者は、滝の高低、水落石の寛狭と、巾を述べてありますが、兼六園の翠滝は「作庭記」そのままを写さず、加賀の郷土色を残した庭園法が窺えると述べています。
(瓢池の小滝)
兼六園では
兼六園の翠滝は那智の滝を表現したと云われていますが、樹木の鬱蒼としている処だけがよく似ているそうですが、写真で見る限り滝そのものは似ていません。那智は巾細く見え翠滝は広くみえる。これは滝の長さの長短、視野の広狭によるもですが、兼六園特異の折衷滝(長短の良いところを取り1つにしている滝)を醸し出しています。翠滝は、巾を細めるわけにもいかず、とはいえ落差や最大限。これを高く見せる手段としての瓢池小滝は、つとめて低滝として親滝(翠滝)を活かしてあるところが非凡といえます。
(那智の滝)
(上から望む長谷池と時雨亭)
(長谷池の大滝)
(長谷池の小滝)
また、後に造られた長谷池にある大と小の滝は、作庭記に述べられる京都の作庭そのままと云われていますが、これが京都にあれば“枯山水”であったと思われますが、幸いに水が豊かな兼六園では、遣水を引き、現在でも僅かながら水を落しています。
(つづく)
参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所 兼六園観光協会 昭和51年12月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 2006年12月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成5年3月発行