【兼六園】
17、弘法大師高野山・・・。
《原文》弘法大師高野山ニいりて、勝地をもとめたまふ時、一人のおきなあり。大師問テのたまはく、此山に別所建立しつべきところありや。おきなこたへていはく、我領のうちにこそ、昼ハ紫雲たなびき、夜ハ露光をはなつ五葉の松ありて、諸水東へながれたる地の、殆国城をたてつべきハ待れといへり。但諸水の東へながれたる事ハ、仏法東漸の相をあらはせるとか。もしそのぎならバ、人の居所の吉例にハあたらざらむか。
或人云、山水をなして、石をたつる事ハ、ふかきこゝろあるべし。以土為帝王、以水為臣下ゆへに、水ハ土のゆるすときにハゆき、土のふさぐときにハとゞまる。一云、山をもて帝王とし、水をもて臣下とし、石をもて輔佐の臣とす。かるがゆへに、水ハ山をたよりとして、したがひゆくものなり。但山よはき時ハ、かならず水にくづさる。是則臣の帝王をおかさむことをあらハせるなり。山よはしといふハ、さゝへたる石のなき所也。帝よハしといふハ、輔佐の臣なき時也。かるがゆへに、山ハ石によりて全く、帝ハ臣によりてたもつと云へり。このゆへに山水をなしてハ、必石をたつべきとか。
(栄螺山(さざえやま)より霞ヶ池)
(栄螺山(さざえやま)解説板)
(栄螺山(さざえやま)の山頂の三重宝塔)
(訳:弘法大師高野山に入り、勝地を求めた時、一人の翁に出会い。大師が此山に別所を建立するべき所はあるか聞くと、翁応えて、我領のうちにこそ、昼は、紫雲たなびき、夜は、露光をはなつ五葉の松ありて、諸水東へながれたる地の、殆国城(弘法大師の拠点)をたてつべきは待れといへり。但、諸水の東へながれたる事は、仏法東漸(仏教は東(インド)からやってくる)の相をあらはせるとか。もしそのぎならば、人の居所の吉例(非常に良い)といえる。
(五葉松が有る、2年前の木橋)
(五葉松が無い、最近の木橋袂)
或人が云には、山や水路・池等を作り、石を立てる(ここでは居所として整備するといった広い意味)ことは非常に深い意味がある。以土為帝王(中国故事に出てくる理想の帝王)、以水為臣下(同家臣)のように、水(家臣)は土(主)の意志に沿って動き、土(主)が自重せよと言った時は動かない。
山(主)が弱いと言う事は支える石(家臣)が無くなると言う事。だからこそ、山(主)は石(家臣)よりも全てに対してただしくあるべきだ。同時に帝王は良い家臣がいてこそ存在することが出来る。だからこそ、山があり、水があり、そして石があることが(拠点となる建物や庭を作る)必須条件となる。)
(「今は昔、弘法大師わが唐にしてなげしところの三鈷落ちたらむ所を尋ねると思ひて弘仁7年(816)といふ年の6月に王城を出でて尋ねるに大和国宇智の郡に至りて一人の猟人に会ひぬ。その形面赤くしてたけ八尺ばかりなり。(中略)即ちこの人大師を見て過ぎ通るにいはく、何ぞの聖人のあるきたまふぞと。大師のたまはく、われ唐にして三鈷を投げて禅定の霊穴に落ちよと誓ひき。今その所を求め歩くなりと。猟人のいはくわれは南山の犬飼なり。われその所を知れり。すみやかに教へたてまつるべしといひて犬を放ちて走らしむる間犬失せぬ。そこに一人の山人に会ひぬ。大師はこのことを問ひたまふに、ここより南に平原の沢あり、これその所なり。明くる朝に山人大師に相具して行く間密かに語りていはくわれこの山の主なり。すみやかにこの領地をたてまつるべしと。山のなかに百町ばかり入りぬ。山のなかはただしく鉢をふせたる如くにて莚にり峯八つ立ちて登れり。桧のいはむ方なく大きなる、竹のやうにて生ひ並びたり。そのなかに一つの桧のなかに大きな竹股あり。これを見るに喜びかなしぶこと限りなし、これ禅定の霊堀なりと知りぬ。大師この山人は話人ぞと問いたまへば丹生の明神となむ申す。今の天野の宮これなり。犬飼をば高野の明神となむ申すといひて失せぬ」と、はなはだ説話風ですが「作庭記」と同調のものが書かれいることが明らかです。(弘法大師入定の地・今昔物語 ( 巻11-25 ) 保安元年(1120)より)
兼六園では
「兼六園全史」の筆者は能楽にも造詣が深く、今回の弘法大師と兼六園との繫がりを謡曲「高野物狂」を例にお書きになっています。また、作庭と君臣を山・水・土の関係を謡曲「国栖」を例示し「それは君を舟、臣は水、水よく舟を浮かむとも、此の忠勤によもしかり」とあります。
(高野山の金剛峯寺)
(栄螺山(さざえやま)の山頂の三重宝塔)
謡曲「高野物狂」は、此の項に意訳してあるところが有るとし、「中にも三鈷の松は、大同2年?のご帰朝以前に、我法成就円満の地の。しるしに残り留まれとて。三鈷を投げさせたまひしに、光と共に飛び来たり、此の松枝の梢にとどまる。」以上は謡曲文であるが、これは三鈷の松といって五葉松である。兼六園内にも五葉松(姫小松・一昨年枯れる)が所々に有り、太子の旧蹟を物語るところもある。即ち我が郷里で大師の言伝えの現存する処は、能登の法吼山法住寺だけである。この法住寺の桜で刻した仏像を「栄螺山(さざえやま)山頂三重宝塔内に納めたと云う。
(金沢養智院の伝承によれば、ご本尊地蔵菩薩は加賀延命地蔵と称され、天長2年(825)弘法大師が北国を巡錫された時、能登の国吼桜山に登り一の霊木を以って一刀三礼して彫刻されたと伝えられています。)
拙ブログ
養智院と鬼川
http://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11456182597.html
また、前期謡曲文“高野物狂”によると大同2年?は大師のご帰朝の年に当たる、兼六園千歳台大同2年の地蔵の刻印と同じ年号である。この地蔵は12代斉広公の枕石である。以上を見ると三重塔も斉広公像を納む。何か斉広公と大師と関連がある様に思えてならぬ。と、筆者は感慨深げに書かれています。
(註:大同元年(806)10月、空海は無事、博多津に帰着。大宰府に滞在し、呉服町には東長寺を開基し、在唐中集めた密教経典・法具などを記した『御請来目録』を朝廷に奉呈し、 筑紫観世音寺 (ちくしかんぜおんじ )に、そして大同4年(809)、朝命により上京し 高雄山寺( たかおさんじ) に入住しました。)
(空海弘法大師)
(空海は歴代天皇の篤い帰依を受け、仏教諸宗の中にも真言密教が浸透していきました。また、一宗の根本道場として東寺を賜り、43歳の弘仁7年(816)には、嵯峨天皇より高野山を賜りました。45歳の弘仁9年から4年間余りは、高野山を中心に過ごされ、修法や著述などにいそしまれました。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』等)
(つづく)
参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所 兼六園観光協会 昭和51年12月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 2006年12月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成5年3月発行