【金沢城下・天神橋→浅野川大橋】
“加賀の女(ひと)”という北島三郎のヒット曲がありました。3番の“謡曲(うた)がふるふる 加賀宝生の・・・”という件りですが、加賀の植木職人が木の上で剪定作業の合間に、謡を口すさんでいる姿を、何方がいったのか分かりませんが、金沢人だとすれば少しお国自慢を忍ばせていったフレーズでしょう。他所の人だとすれば、いろいろ・・・・でしょうネ。
金沢では、藩政期からお殿様の影響でお能や謡が盛んで、武士だけでなく、お殿様が奨励すれば、逆らわず従順な金沢町人の習い性からか、商人は言うに及ばず、大工や細工職人、植木職人に至るまで、お謡いの稽古に通ったといわれています。
(稽古場は今風に言えば異業種交流のサロンかロビーだったのかも・・・。)
今は、どうか分かりませんが、私の同世代だとかなり謡える人がいます。戦後すぐの頃、社会に出ると普通に習いに行ったと聞きますが、私は、ガサツで、それもありますが、文化オ~・・・ノォ~。仕事や金に追われそれどころではなくて、ついに習うこともありませんでした。
(能楽堂の石碑)
50年も前の金沢では、町のおやじさんや地元の有力企業の社員は日曜日の午前中、料理屋の2階等に集まって謡の稽古というのがざらに有ったらしく、私の駆け出し時代、急用で出入りの印刷屋を尋ねると、社長は謡の稽古とかで、料理屋に駆けつけると稽古の真っ最中。厳粛な雰囲気に圧倒され、すぐに用件をいい出せなくて、正座で長時間待ったことを思いだします。
(石川県立能楽堂)
金沢ではお能が、町人にまで浸透したのは、藩営の“御細工所”の選ばれた職人に兼業でシテ方以外の笛、大鼓、小鼓、太鼓、地謡を務めさせ保護奨励したのが始まりだそうです。
(石川県立能楽堂のインホメーション)
爛熟期といわれる12代藩主斉広公の時代、文化8年(1811)に行われた“大規式能”で、出演した役者の総数が259人に及び、当時の江戸五座の役者総数より多く、しかもその内の202人は町人だったという記録が残っているそうです。
(江戸の五座:観世、宝生、今春、金剛、喜多の五座をいう。)
幕末、金沢で謡が玄人裸足の算用場に勤める町人能登屋甚三郎(梅田甚三久)が書いた日記に、神社の神事能に多くの見物人が出掛けたことや御手役者のこと、お寺の有名な泡吹面のご開帳。さらには雪の2月、はるばる山越えで越中高宮村へ謡いを教えに行った話等が書かれています。如何に藩政期、金沢では、お能や謡が町人に深く浸透していたかが分かる貴重な日記です。
(今の旧材木町入口)
その日記の中に、謡の稽古の様子が書かれていたので、少し要約して書きます。慶応元年(1865)閏5月晦日から12月15日の半年間、材木町入口の町人木村屋吉三郎、能とや喜太郎、嶋屋源太郎3人と並木町の越中屋太三郎が、師匠である能登屋甚三郎(梅田甚三久)の口移しで“鶴亀”“猩々”“関原与市”“皇帝”“忠信”“飛雲”“吉野静”を習い、100日以上の稽古が終わる12月15日の稽古仕舞に、師匠や先輩等10人が集まり謡い会が催れ、その後、午後7時から10時頃まで、みんなで“ふきたち”や“味噌漬タラの焼き物”“このわた”などを肴に一盃やったと書かれています。
(幕末の庶民の日記「梅田日記」)
いずれにしても、金沢では、藩政期、多くの町人にお能や謡が身近なものであったことが窺われます。
(つづく)
参考文献:「金沢市史」通史編2 近世、藤島秀隆著、平成17年12月刊行・「梅田日記・ある庶民がみた幕末金沢」長山直冶、中野節子監修、能登印刷出版部2009年4月19日発行