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作庭記の兼六園-下-①

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【兼六園】

22、立石口伝

《原文》石をたてんハ、先大小石をはこびよせて、立べき石をばかしらをかミにし、ふすべき石をばおもてをうへにして、庭のおもにとりならべて、かれこれがかどをふみあハせ、えうじにしたがひて、ひきよせたつべき也。

石をたてんにハ、まづおも石のかどあるをひとつ立おおせて、次々のいしをバ、その石のこはんにしたがいひて立べき也。

石をたてんに、頭うるハしき石をば、前石にいたるまでうるハしくたつべし。かしらゆがめる石ヲバ、うるハしき面にみせしめ、おほすがたのかたぶかんことは、かへりミるべからず。

又岸より水そこへたていれ、また水そこより岸へたてあぐるとこなめの石ハ、おほきにいかめしくつづかまほしけれども、人のちからかなふまじきことなれバ、同色の石のかど思あたらんをえらびあつめて、大なるすがたに立なすべきなり。

石をたてんにハ、先左右の脇右前石を寄立むずるに、思あらぬべき石のかどあるをたてをきて、奥石をばその石の乞にしたがひてたつるなり。

 

 

(千歳台の枕石・斉広公の寝所跡)

 

《訳:石を据えるにはまず大小の石を運んできて、立石になる石の頭を上にし、臥石になる石の頭を上にし、庭の表に重ならないように一つ一つ並べて、大小の石の大きさや、見映え、組み合わせ、釣り合いなどを見ながら、かねてからの構想にしたがって据えてゆくべきです。

石を据えるには、まず主石の見映えある角、形を持った石を一つ据えてから、その主石に対して、大きさ、姿が一定の空間構造をなす上にもっとも当てはまるように、次々の石を据えてゆくべきです。

石を据えるには前石などに至るまで、頭部の形の良い石を、それぞれ安定するように据えるべきで、石の頭がゆがんでいる石は、頭が安定した姿になるように立ててその全体の姿が傾いていても、意に介することはない。

また岸から水底へ立ていれ、また水底から岸へ立ち上がる大磐石は、大きくていかめしく続くことが望ましいが、労力が大変であるから、同じ色で似た襞のある石を選びあつめて繋ぎ合わせて一つ石に見せるようにすべきです。

主石へ対して左右の脇石や前石を組むのに、主石にふさわしいのを据えて、その奥のいわゆる見込みの石(見越石)を先に据えた主石や脇石に対して、大きさ、姿が一定の空間構造をなす上にもっとも当てはまるように据えてゆくべきです。)

 

 

(霞ヶ池の亀頭石)

 

兼六園では

立石は、縦の方向に長く据えた石で、横石は、横の方向に長く使ったものをいい。平石は、 高さのない平ぺったい石をいいます。また、伏石というのは、お椀を地面に伏せたような甲羅形になるものをいいます。他に平天石や斜石があり、 平天石は、平石と違い、石にある程度の高さがあり、なお、かつ石の天端が平らなもの、斜石は、石を斜めに立てて据えたものをいいます。兼六園では、水が豊富なので枯山水の庭園はなく、石が連なる庭は、強いて言えば、山崎山七福神山に見られます。

 

 

(七福神島に七福神の石組)

(山崎山の石組)

 

一昔前までは平泉の文化財といえば中尊寺金色堂でしたが、近年、世界遺産に登録されたこともあり、金色堂にプラスして周辺の毛越寺庭園の知名度も上がっていますが、この庭園は平安時代に造られたもので、その当時の作庭のマニュアル「作庭記」が現代にも伝わっています。兼六園では、江戸時代中期の様式が多く、竹澤御殿時代以後昭和44年(1969に明治百年記念事業として増設された「梅林」「時雨亭」の様式に作庭記小堀遠州好みが窺えます。

 

 

(曲水の石組)

 

作庭記の造型理論は大和絵!!

「作庭記」の著者は藤原道長の孫、即ち関白頼道の子である橘俊綱であるというのが定説です。平安時代の中期、藤原文化の全盛期で、従って内容は、寝殿造り建築に即応した庭園の造り方や当時の造園手法を詳しく記した造園書です。その影響は大きく、平安中期は勿論のこと、末期から鎌倉初期にまで及び、庭園が形成される色々な要因として、当時の社会情勢や生活様式非常に重要であるが、さらに直接的なに影響を与えるのは、その時代に流行する絵画です。当時大きな支配力を持っていた大和絵の造形理論(思想)にかなり忠実で、平安後期の庭園を作庭記流庭園とか大和絵的構成の庭と言われています。

 

作庭記流の特徴は庭石による造形が極めて消極的、女性的で、石組が女性的であるためには石組を受ける地形、すなわち、野筋のすじ(女性の乳房のような形の低い築山)の起伏や池汀の輪郭も当然単純無変化で、作庭記流の要点は以下の通りです。

 

(駕籠石・駕籠のプラットホーム)

(瓢池の亀石)

 

「大和絵」の定義は、時代によって意味・用法が異っている。 平安時代から14世紀前後までは、画題についての概念であり、日本列島における故事・人物・事物・風景を主題とした絵画のことであった。対立概念としての「唐絵」は唐(中国)の故事人物事物に主題をとったものであり、様式技法とは関係がない。 14世紀以降は、絵画様式についての概念になり、平安時代に確立された伝統的絵画様式を大和絵と称するようになった。一方「唐絵」(漢画)は宋以降の中国画の技法に基づく絵画、また日本に輸入された中国画そのものを意味する言葉となった。

 

 

(真弓坂上の石組・白っぽいのはメノウの原石)

 

① まろやかな曲線で囲まれた大きな池泉が庭の中央を広く閉めている。

② 中島の形は小判型で少しも角ばったところがなく、低い姿勢を示している。

③ ふっくらと盛り上がった野筋がゆるやかな傾斜をしめしている。

④ のどかな傾斜線が、そのままなだらかに池そこへつ

ながって行くので、池岸が直角に切り立ってなく、

池底も急角度に深くならない。

⑤ その最後の条文に「屋の軒」近くに三尺に余れる

のを立つる事特に憚るべし。

三年のうちに主変事あるべし。また石を逆さまに立

つと大いに憚るべし」と記しいる。

 

以上のように庭石を据えるに当って、あれも悪いこと

悪いと手も足もとも禁止するのでうかつに布石されない

ことになる。

   

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 他


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