【兼六園】
26、禁忌(建築と石の関係においての禁止事項)
《原文》一、三尊仏の立石を、まさしく寝殿にむかふべからず。すこしき余方へむかふべし。これををかす不吉也 。
二、庭上に立る石、舎屋の柱のすぢにたつべからず。これををかしつれバ、子孫不吉なり。悪事によりて財をうしなふべし。
三、家の縁のほとりに大なる石を北まくらならびに西まくらにふせつれバ、あるじ一季をすござず。凡大なる石を縁ちかくふする事ハ、おおきにはばかるべし。あるじとどまりぢうする事なしといへり。
四、家の未申方(南西)のはしらのほとりに、石をたつべからず。これををかせば、家中ニ病事たえずといへり。
五、未申方(南西)に山ををくべからず。ただし道をとほらバはばかりあるべからず。山をいむ事ハ、白虎の道をふさがざらんためなり。ひとへに□てつきふたがん事ハ、ハバかりあるべし。
六、山をつきて、そのたにを家にむかふべからず。これおむかふる女子、不吉云々。又たにのくちを□むかふべからず。すこしき余方へむかふべし。
一臥石を戌亥方にむかへべからず。これををかしつれバ、財物倉にとどまらず、奴畜あつまらず。又戌に水路をとをざす。福徳戸内なるがゆへに、流水ことにハバかるべしといへり。
七、雨したりのあたるところに、石をたつべからず。そのとバしりかかれる人、悪瘡いづべし。檜皮のしたたりの石にあたれるその毒をなすゆへ也。或人云、檜山杣人ハ、おほく足にこ□病ありとか。
八、東方に余石よりも大なる石の、白色なるをたつべからず。其主ひとにをかさるべし。余方にもその方を剋せらむ色の石の、余石よりも大ならむを、たつべからず。犯之不吉也。
(三重の宝塔)
(三重の宝塔のある栄螺山の解説)
(訳:1、三尊仏の立石を、まっすぐに寝殿にむけてはならない。すこし他の方角に向ける。これを犯せば不吉です。
2、庭上に立てる石は、舎屋の柱の筋(見通し)に立ててはならない。これを犯せば、子孫に不吉です。悪事によって財を失うという。
3、家の縁のほとりに、大きな石を北へ頭を向けたり、西へ頭を向けたりして据えれば主人は一年も無事に過ごせない。およそ大きな石を縁近くふせることは、大いに憚らねばならない。主人がとどまり住むことがないと言われる。
4、家の南西(未申)の方角の柱のほとりに石を立ててはならない。これを犯せば、家中に病気が絶えないという。
5、南西(未申)の方角に山を置いてはならない。ただし道を通すならば憚らない。山を忌むことは白虎の道をふさがないためである。ひとえに(?)で、築きふさぐことは憚りがある。
6、やまを築いて、その谷を家に向けてはならない。これを向ければ、女子が不吉である。また谷のくちを(?)向けてはならない。少し他の方角へ向けるのがよい
7、臥せ石を北西の方角に向けてはならない。これを犯したならば、財物が倉にたまらないし、雇人も家畜もたまらない。また北西に水路を通さない。これは福徳が戸内にあるために、流水を殊の外憚らねばならない。雨垂の当たるところに石を立ててはならない。そのとばしりのかかった人は、悪瘡がでる。檜皮の滴りが石に当たるところが毒をなすからである。ある人が言うには、檜山の仙人は多く足に(?)病があるという。
8、東方に他の石よりも大きな石の、白色のものを立ててはならぬ。そこの主が人に犯されるのである。他の方角にも、その方角を打ち負かす目立った色の石で、他の石よりも大きなのを立ててはならぬ、これをおかせば不吉である。)
(栄螺山より霞ヶ池)
兼六園では
石組みは、その時代背景に基づいた思想や祈念を表現します。 仏教の世界観をテーマに、須弥山、九山八海を石組みで象徴したり、釈迦三尊・阿弥陀三尊・不動三尊など三石を用いて現わしたり、また、道教の影響を受けて蓬莱山や鶴亀などをかたどった石組が庭に組まれ常世の繁栄や長寿延年を祈念しました。現代の和風庭園にも、そのような石組の技法は踏襲されていますが、思想的な意味合いは薄れ、もっぱら自然風の佳景を表現するべく組まれることが多い。
(三尊石の例)
初期の兼六園は、11代治脩公が易学を究めた儒者新井白蛾を学頭に向え藩校明倫堂を開学するが、白蛾、老齢のため3ヶ月足らずで病没のためか?易経の権威が学頭であるのに、兼六園は丑寅方面(北東)の鬼門もあまり考慮を払われていない。斉広公、斉泰公時代には、未申方(南西)に園内三尊仏として「蠑螺山(さざえやま)」が、また、丑寅方(北東)には「御室の塔(山崎山)」が造られますが、兼六園は、現在のような広範囲なものではなく、各期に於いて幾つかの庭が寄合わされ大きくなります。
(山崎山の御室の塔)
その一つ一つの丑寅方(北東)には、みなその時期じきに魔よけを施してあったものと思われます。最後に、兼六園が今の様な広さに完成した頃(斉泰公時代)には兼六園全体とした“三尊仏”を考慮したものと思われます。竹澤御殿の未申方(南西)に当る「未申方(南西)に山を置くべばからず。但し道を通らば憚あるべからず」とあるから、思うに、霞ヶ池と竹澤御殿間に大道があったらしく、これと池とにより、この不吉を取除いたものと「兼六園全史」の著者がお書きになっています。
(新井白蛾が学頭を勤めた明倫堂)
(新井白蛾:加賀の人で、若くして易経を極めます。易経は、儒教の中心思想で、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説くもので、儒教の基本書籍である五経の筆頭に挙げられる経典で、加賀藩11代治脩公が藩校「明倫堂」を開講する寛政4年(1792)2月学頭に命じられ、藩主の待講を兼ねます。禄は300石を食み、別に職俸50石を賜っています。当時、すでに79歳だったので5月14日5月14日持病の癪気のため病没。5月18日、金沢野田寺町宝勝寺(現在の寺カフェ)で葬儀、野田山に葬られます。嫡子升平が200石で跡目相続し藩に仕えます。)
(つづく)
参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所 兼六園観光協会 昭和51年12月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 2006年12月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成5年3月発行 ほか