Quantcast
Channel: 市民が見つける金沢再発見
Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

作庭記と兼六園-下-⑦

$
0
0

【兼六園】

30、禁忌 石の禁止事項

《原文》一石をたつるに、ふする石ニ立てる石のなきは、くるしみなし。立る石ニ左右のわき石、前石ニふせ石等ハ、かならずあるべし。立る石をただ一本づつかぶとのほしなんどのごとくたてをくことは、いとおかし。

一ふるきところに、をのづからたたりをなす石なんどあれバ、その石を剋するいろの石をたてまじへれバ、たたりをなす事なしといへり。又三尊仏の立石をバ、とをくたてむかふべしといへり。

一屋ののきちかく、三尺ニあまれる石を立ること、大ニはばかるべし。東北院ニ蓮仲法師がたつるところの石、禁忌ををかせることひとつ侍か。

 

 

(兼六園のイメージ写真)

 

(訳:1、 石を立てるに、臥す石に立つ石ないのは差し支えないが、立つ石に左右の脇石、前石としての臥せ石などは、必ずなければならない。立つ石をただ一本ずつ、兜の星などの様に建てて置くことは、誠に笑うべきことである。

2、 古い場所に、自然と祟りをする石などがある時には、その石を打ち負かせる色の石を立て替えるならば、祟りをすることがないと言われている。また、三尊仏の立石を、遠く立て迎えるようにと言われている。

3、 家屋の軒近くに、三尺に余る石を立てることは、殊に憚からねばならぬ。三年のうちに主人は変事が起こるであろう。また、石を逆様に立てることはおおいに憚らねばならない。東北院に蓮仲法師が立てた所の石に、禁忌を犯したことが一つあるとか。)

 

兼六園では

本項には、兼六園に関することが無いことから、ここでは脱線。橘俊綱が「作庭記」の著者だと考える上で見逃せない事があるので調べます。“東北院に蓮仲法師が立てた所の石に、禁忌を犯したことが一つある”言ったのは誰なのだろうか!?推察すると?蓮仲法師が東北院石立てした以後の人物である事は間違いないことから、その石立てを「禁忌を犯している」と判断できる“作庭力の持主”で、それを公言できるだけの地位の人物であることが浮かんできます。現在の研究では、その人物は、宇治殿(橘俊綱)にしぼられています。次項では、さらに詳しく説いています。

 

 

(兼六園のイメージ写真)

 

31

《原文》或人のいはく、人のたてたる石ハ、生得の山水ニはまさるべからず。但おほくの国々をみ侍しに、所ひとつにあはれおもしろきものかなと、おぼゆる事あれど、やがてそのほとりに、さうたいもなき事そのかずありき。人のたつるにハ、かのおもしろき所々ばかりを、ここかしこにまなびたてて,かたはらにそのごとくなき石、とりおく事ハなきなり。

石を立るあひだのこと、年来ききをよぶにしたがひて、善悪をろんぜず、記置ところなり。延円阿闍梨ハ石をたつること、大旨をこころえたりといへども、風情をつたへえたり。如此あひいとなみて、大旨をこころえたりといへども、風情つくることなくして、心なんどをみたるばかりにて、禁忌をもわきまえず、をしてする事にこそ侍めれ。高陽院殿修造の時も、石をたつる人みなうせて、たまたまさもやとて、めしつけられたりしものも、いと御心にかなはずとて、それをバさる事にて宇治殿御みづから御沙汰ありき。其時には常参て、石を立る事能々見きき侍りき。そのあひだよき石もとめてまいらせたらむ人をぞ、こころざしある人とハしらむずると、おほせらるるよしきこえて、時人、公卿以下しかしながら辺山にむかひて、石をなんもとめはべりける。

 

 

(兼六園のイメージ写真)

 

(訳:或人の曰く、人の立てる石は、生得の山水に勝りようがないという。但、多くの国々を見て回り、その1つに“あはれおもしろきものかな”と感動したことがあっても、やがてそのほとりに、周辺にはたいしたことのない石の風景が無数にあることが見えてくるはずで、人が石を立てる際には、そのおもしろいところばかりをここかしこに真似て立てるわけで、かたわらに、普通の石の風景を取り置くということはない。

石を立る間のことは、年来聞き及んだことに従い、善悪を論ずることはなく、記し置いたところにある。延円阿闍梨は、石を立てることの大旨をこころえてはいたが、風情をつたへえたり。如此あひいとなみて、大旨をこころえたりといへども、風情つくることなくして、心の形なんどを見ただけで、禁忌をもわきまえず、高陽院殿修造の時も、石を立てる人みな失せて、たまたまさもやとて、めしつけられたりしものも、いと御心にかなはずとて、それをばさる事にて宇治殿(橘俊綱)御自ら御沙汰ありき。其時には常参(常に来る)て、石を立る事能々見きき侍りき。そのあひだよき石もとめてまいらせたらむ人をぞ、志ある人とは、しらむずると、おほせらるるよしきこえて、時人、公卿以下しかしながら辺山にむかひて、石をなんもとめはべりける。)

 

 

(写真は「山水並びに野形図」兼六園全史より)

 

兼六園では

この項では、加賀藩でもう一つの重要な造園資料「山水並びに野形図」の巻末の系図に出てくる延円阿闍梨「作庭記」高陽院殿修造の事情が書かれていますので、今回はその事について記します。「作庭記」の「高陽院殿修造の時も、石をたつる人みなうせて?それをばさる事にて、宇治殿御みづから御沙汰ありき。その時には常参りて、石を立る事能々見きき侍りき」という文章でありますが、高陽院の修造は、数度ありますが、宇治殿(橘俊綱)の父藤原頼通の死(承保元年(1074)以前)では、長暦3年(1039)の炎上では長久3年(1042)の再建。天喜2年(1054)の焼亡では康平3年(1060)に再建がされます。資料によると、長暦3年は炎上で、3年ばかり後に早くも行幸がある程の再建がなっています。しかし、天喜2年(1054)の焼亡の折は、その再建は6年後のこととなっています。恐らくこの工事こそ、「作庭記」の著者が、「石を立てること、能々見きき侍りき」した時であろう?宇治殿(橘俊綱)のそばで、石立てのことを見聞きできる人物?延円阿闍梨以後の人物?巨勢弘高とほぼ同年代、もしくはそれ以後の人物?前回の記しましたが、蓮仲法師による東北院石立て以後の人物で、その石立てを「禁忌を犯している」と判断できる作庭力の持主であるとともに、それを公言できるだけの地位の人物と云う結論がみえてきます。「作庭記」が纏め上げられるまでには、絵師の巨勢家(弘高)や宋人などからの伝承、延円阿闍梨からの伝承等々、幾つかの秘伝書があって、これを集約したのが「作庭記(前栽秘抄)」ということになるのでしょう。

と云うことから“作庭記”の著者は宇治殿(橘俊綱)と云うことなる??

 

 

(兼六園のイメージ写真)

 

延円阿闍梨(?1040) 平安時代中期の絵仏師。藤原義懐(よしちか)の子。法成寺薬師堂の柱絵,高陽院(かやのいん)の屏風(びょうぶ)絵などをえがく。また造園にもすぐれた。現存する作品はないが,醍醐(だいご)寺の「不動明王図巻」の中に延円のかいた2童子像の写しがのこる。長久元年死去。通称は飯室阿闍梨(あじゃり),絵阿闍梨。名は縁円ともかく。

 

高陽院(賀陽院):平安京の中御門大路南、大炊御門大路北にあった、桓武天皇の皇子賀陽(かや)親王の邸宅。後冷泉(ごれいぜい)・後三条天皇の里内裏(さとだいり)ともなり、のち藤原頼通の邸となる。貞応2年(1223)焼亡。

 

山水並野形図(せんずいならびにのがたのず)室町時代中期に編纂されたと考えられる庭園に関する秘伝書。著者は未詳。日本では「作庭記」に次いで古い。鎌倉時代以後の庭園の新しい展開を背景にしていると考えられる。「兼六園全史」によると、応仁の乱直前の書写で、応仁の乱直後、前田家初代利家公の室松(芳春院)が京の残存古典資料を買い集めた物の中に有ったもので、以後、「作庭記」と共に前田家造園資料として藩の諸庭の造園に多大な影響を与えた。

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 「図解庭師が読みとく作庭記・山水并野形図」他


Viewing all articles
Browse latest Browse all 876

Trending Articles