【兼六園】
32、樹事 宅相にもとづいて、各種の木の配置の方法を述べる。
《原文》人の居所の四方に木をうゑて、四神具足の地となすべき事
経云、家より東に流水あるを青竜とす。流水なもしそのけれバ、柳九本をうゑて青竜の代とす。西に大道あるを白虎とす。若其大道なけれバ、楸七本をうゑて白虎の代とす。
南側に池あるを朱雀とす。若その池なけれバ、桂七本うゑて朱雀の代とす。
北後にをかあるを玄武とす。もしその岳なけれバ、檜三本うゑて玄武の代とす。かくのごときして、四神相応の地となしてゐぬれバ、官位福禄そなはりて、無病長寿なりといへり。
凡樹ハ人中天上の荘厳也。かるがゆヘニ、孤独長者が祗陀(洹)精舎をつくりて、仏ニたてまつらむとせし時も、樹のあたひにわずらひき。しかるを祗蛇太子の思やう、いかなる孤独長者か、黄金をつくして、かの地しきみてて、そのあたひとして、精舎をつくりて、尺尊ニたてまつるぞや。我あながちに樹の直をとるべきにあらず。ただこれを仏にたてまつりてむとて、樹を尺尊にたてまつりをはりぬ。かるがゆへに、この所を祗園給孤独薗となづけたり。祗蛇がうゑにき孤独がその、といへるこころなるべし。秦始皇が書を焼き、儒をうづみしときも、種樹の書おばのぞくべしと、勅下したりとか。仏ののりをとき、神のあまくだりたまひける時も、樹をたよりにとしたまへり。人屋尤このいとなみあるべきとか。
(現在の七福神山)
(幕末期の七福神山・今は無い柳の木があります。)
(訳:人の居所の四方に木を植えて四神具足の地とすること。天象と合致する地相、庭相の地とする。経に云う、家より東に流水あるを青竜とする。もしその流水がなければ、柳を九本植えて青竜の代りとする。西に大道のあるのを白虎とする。もしその大道がなければ、楸(キササゲ)七本をうえて白虎の代りとする。南の前に池のあるのを朱雀とする。もしその池がなければ、桂九本を植えて朱雀の代りとする。北後に丘があるのを玄武とする。もしその丘がなければ、桧を三本植えて玄武の代りとする。かようにして四神相応の地として住むならば、官位福禄がそなわって無病長寿であるという。凡そ樹は人間世界、天上界における最も荘厳なものである。だから孤独長者が、祇陀太子所有の土地を買い、祇園精舎をつくって、仏に奉ろうとした時も、樹を買ったり運んだりする費用を措しいと思い心をなやました。それをきいた祇陀太子が思うよう、「孤独長者はどんな人物だったのだろうか、彼が財力にものをいわせて、地に敷き満たした土地分で、精舎をつくり、釈尊に献上するとは。自分(祇陀太子)は、むやみに樹木の対価を採るべきではない。対価をとらず、樹を釈尊に献上するのである。だからこの場所を祇樹給孤独園と名づけてのであり、秦の始皇帝が書物を焼き捨て、学者を生き埋めにしたときでさえ、樹のことを書いた書物だけは焼かないように命じたという。仏が法を説いたときは菩提樹下で行い、久遠里の命が錦津見神の宮へ下りた時も、井戸ばたのユスカツラヘまずおりられた。人の住居には樹を植えることが最も大切である。)
孤独長者:須達長者のこと。孤独の人を哀れみ施しを行なったことから、給孤独長者、孤独長者と呼ばれた。
祇園精舎:須達長者が舎衛国の庭園を買って、釈迦の為に施入した寺院。
(現在の兼六園地図に四神相応図を置いてみる?)
33、樹事 四神以外の木の配置の方法、禁忌についての説明。
《原文》樹は青竜白虎朱雀玄武のほかハ、いづれの木をいずれの方にうへむとも、こころにまかすべし。但古人云、東ニハ花の木をうへ、西ニはもみぢの木をうふべし。若いけあらば、嶋ニハ、松柳、釣殿のほとりニハかへでやうの、夏こだちすずしげならん木をうふべし。
槐ハかどのほうにうふべし。大臣の門に槐をうゑて槐門となづくること、大臣ハ人を懐て、
帝王につかうまつらしむべきつかさとか。門前に柳をうふること、由緒侍か。但門柳ハしかるべき人、若ハ時の権門にうふべきとか。これを制止することハなけれども、非人の家に門柳うふる事ハ、みぐるしき事とぞ承侍し。つねにむかふ方ニちかく、さかきをうふることは、はばかりあるべきよし承こと侍りき。門の中心ニあたるところに木をうふる事、はばかるべし。閑の字になるべきゆへなり。方円なる地の中心に樹あれバ、そのいゑのあるじ常にくるしむことあるべし。方円の中木ハ、因の字なるゆえなり。又方円地の中心ニ屋をたててゐれば、その家主禁ぜらるべし。方円中ニ人字あるハ、因獄の字なるゆへなり。
如此事にいたるまでも、用意あるべきなり。
(訳:樹は青竜・白虎・朱雀・玄武のほかは、いずれの樹をいずれの方に植えようとも、思うままでよい、但し古人が云うには、東には花の木を植え、西には紅葉の木を植えよということである。もし池あらば、その島には、松や柳を植え、釣殿の近くには楓類の夏に木立が生い茂り、涼しそうな木を植えるのがよい。槐(えんじゅ)は門のほとりに植えるべし、大臣の門に槐(えんじゅ)を植えて、槐門(カイモン・大臣の門の別称)というのは、大臣は人を懷(なげ)て、帝王にお仕え申し上げる役目だからろいう。(槐は懷と同音か?)門前に柳を植えることに、いわれはあるだろうか?特別にはないけれど、ただ、門前の柳は、それ相当の高貴な人や、あるいは高位高く、権勢ある家柄の所に植えるのが良いようです。門前に柳を植えるのが良いようです。門前に柳を植えることに、反対する分けではないが、下層の人の家の門前に柳を植えることはみっともないことであると伺ったこともある。また、日常さし向う方向の近くに、榊(さかき)を植えることも、かならず障りがあると、門の中央にあたるところに木を植えることも、障りがあるであろう。「閑」の字になっていまからである。方形円形の土地の中央に、樹木あれば、その建物の主人は、常に苦しみごとが絶えないであろう。方形円形の内には「困」の字だからである。また、方形円形の土地の中央に、覆屋を建てて、とどまっていれば、そこの主人は拘束されるであろう。方形円形の内に人字があれば、「因獄」の字だからである。このようなことに至るまでも、遠慮することが必要である。
(真弓坂上にキササゲ)
(兼六園瓢池のキササゲ・他に2本山崎山の下にあります)
キササゲ:長さ30cmもの豆のような実が、冬の間じゅう枝先にぶら下がり、中国を原産地。野生化したものが日本の各地で見かけ兼六園にも4本あります。実の形がササゲ(豆)に似た木であることから名付けられ、他にアズサ(梓)と呼ばれることもあるが、本種は数あるアズサと呼ばれる木のうちの一つに過ぎない。 葉をはじめ、全体に大振りで、個人邸で使われることは少ないが、利尿作用のある実を乾燥させて生薬(梓実=シジツ)に使うことでかつて植えられたらしい。6月~7月にかけてクリーム色の花が、キリ(桐)のように立ち上がる。直径は2cm程度だが、内側に紫色の斑点があって美しい。
兼六園では
「樹は清竜、白虎、朱雀、玄武の他はいずれの木をいずれの方に植えむとも心に任ずべし。経に云うには、屋敷の東に有る流水を青竜とし、もしその清流がなければ柳の木を九本植えて、その代用とする。西に大道のあるのを白虎とする。もしその大道がなければ、楸(キササゲ)七本をうえて白虎の代りとする。南の前に池のあるのを朱雀とする。もしその池がなければ、桂九本を植えて朱雀の代りとする。北後に丘があるのを玄武とする。もしその丘がなければ、桧を三本植えて玄武の代りとする。とありますが、兼六園では、辰巳用水の取り入れ口が東にあり、四神相応に適っていますが、東以外は、前にも記しましたが、時代により、敷地も範囲にも変化があり、残念ながら上記に条件には適っていましんが、現在も、楸(キササゲ)や桂の木は何本か存在し、柳は幕末の絵図に残っています。
(東の桜)
(西の紅葉)
作庭記には「東に花の木を植え、西の紅葉の木を植うべし」と記していますが、昔の兼六園はともかく、今の兼六園は本項の通りになっています。千歳台以東は桜(旭桜・塩釜桜・菊桜など)や杜若、ツツジ、皐月の花の園になり、西は瓢池周辺には紅葉が多い。また、園内島はきまりきった松の木がある(蓬莱島(亀甲島)・鶺鴒島)、思うに植木は枯れる、また、伐ることも出来る、兼六園では、何時の時代も作庭記に注意し、改良が出来るようにしてきたのでしょう。
(松の木の蓬莱島(亀甲島))
(つづく)
参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所 兼六園観光協会 昭和51年12月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 2006年12月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成5年3月発行 「図解庭師が読みとく作庭記」小埜雅章著 (株)学芸社 2008年5月 ほか