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作庭記と兼六園-下-⑨

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【兼六園】

34、一、泉事

《原文》人家ニ泉ハかならずあらまほしき事也。暑をさること泉にハしかず。しかれバ唐人必つくり泉をして、或蓬莱をまなび、或けだもののくちより水をいだす。天竺にも須達長者祗洹精舎をつくりしかバ、堅牢地神来て泉をほりき。すなはち甘泉是也。吾朝にも、聖武天皇東大寺をつくりたまひしかバ、小壬生明神泉をほれり。絹索院の閼伽井是也。このほかの例、かずへつくすべきにあらず。泉ハ冷水をえて、屋をつくり、おぼいづつをたて、簀子をしく、常事なり。冷水あれどもその所ろ泉にもちゐむこと便宜あしくは、ほりながして、泉へ入べし。あらはにまかせいれたらむ念なくハ、地底へ箱樋を泉の中へふせとおして、そのうへに小づつをたつべきなり。若水のありどころ、いずみより高き所ニあらば、樋を水のいるくちをバ高て、すゑざまをバ次第ニさげて、そのうゑに中づつをすふべし。ただしそのつつよりあまりいづるなり。ふせ樋ハ、やきたるかわらもあしからず。

作泉にして井の水をくみいれむニハ、井のきはに大きななる船を台の上に高くすゑて、そのしたよりさきのごとく箱樋をふせて、ふねのしりより樋のうへハ、たけのつつをたてとをして、水をくみいるれバ、をされて泉のつつより水あまりいでてすずしくみゆるなり。

泉の水を四方へもらさず、底へもらさぬしだい。先水せきのつつのいたのとめを、すかさずつくりおおせて、地のそこへ一尺ばかりほりしづむべし。そのしづむる所は、板をはぎたるおもくるしみなし。底の土をほりすてて、よきはにつちの、水いれてたわやかにうちなしたるを、厚さ七八寸ばかりいれぬりて、そのうへにおもてひらなる石をすきまなくしいれしいれならべすゑて、ほしかためて、そのうへに又ひらなる石のこかはらけのほどなるをそこへもいれず、ただならべをきて、そのうへに黒白のけうらなる小石をバしくなり。

一説、作泉をば底へほりいれずして、地のうへにつつを建立して、水をすこしものこさず、尻へ出すべきやうにこしらうべきなり。くみ水ハ一二夜すぐれバ、くさりてくさくなり、虫のいでくるゆへに、常ニ水をばいるるなり。地上ニ高くつつをたつるにも、板をばそこへほりいるべきなり。はにをぬる次第、さきのごとし。板の外のめぐりをもほりて、はにをバいるべきなり。簀子をしく事ハ、つつの板より鼻すこしさしいづるほどにしく説あり。泉をひろくして、立板よりニ三尺水のおもへさしいで、釣殿のすのこのごとくしく説もあり。これハ泉へおるる時、したのこぐらくみえて、ものおそろしきけのしたるなり。但便宜にしやがひ、人のこのみによるべし。当時居所より高き地ニほり井あればバ、その井のふかさほりとをして、そこの水ぎはより樋をふせ出しつれバ、樋よりながれいづる水たゆる事なし。

 

 

(成巽閣裏の井戸)

 

(訳:住まいには泉がなくてはならないものである。暑さを避けるには泉にこしたものはない。それだからこそ唐人は必ず人口的な泉をつくり、蓬莱にヒントをえたり、或いは獣の口から水を出したりしている。天竺にも須達長者祇池精舎をつくったところ、堅牢地神がやって来て泉を掘った。甘泉がすなわちそれである。我が国でも聖武天皇が東大寺をつくったので、小壬生明神が神泉を掘った。羂索院(けんさくどう)の閼伽井(あかい)がそれである。このほかにもその例が数えきれないほどである。

(屋)は、冷水を確保してから覆屋をつくり、大井筒を立て、簀子(すのこ)縁を敷くのが一般的で、冷水があっても遠いとか不便なところであれば、流し来たって便利な手近の泉へ導く方がよい。開渠にするのが都合が悪ければ、地中へ箱樋を水源から泉まで伏せ通して来て、その上へ小高をたつべきである。もし水源が泉よりも高ければ水のとり入れ口の樋を水源の水位のゆるす限り高くして、それよりも泉の方を低くし、そのうえに中筒を据えればよい。但し、その中筒の高さを水源の水位より、ちょっと低くすれば、その水源の水がふき出て中筒からあふれるのである。土中に埋める臥せ樋は、永持ちさせようと思えば、石を蓋覆いにして、かぶせるとよい。もしくはよく焼いた瓦でも悪くない。)

 

羂索院(けんさくどう):東大寺建築で、天平勝宝4年(752)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくどう)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂です。旧暦3月に法華会(ほっけえ)が行われるようになり、現在も法華堂、また三月堂ともよばれるようになります。閼伽井(あかい)は仏に供える閼伽の水をくむ井戸

 

(小糸の桜)

 

兼六園では

兼六園の井戸で有名なのは、千歳台に井戸の中から桜が顔を出している桜があります。兼六園にある400本の桜の中で、風変わりで異端とも言われていますが、井戸はかなり深い本物の井戸で、「小糸の桜」という伝説の桜と井戸です。

「昔々、小糸という美貌の女中がいて、お殿様から寵愛を受けますが、小糸は従わずお手打ちにされ、井戸に投げ込まれたという、彼女は恨みを込めて桜になったというお話です。何時の頃から云われたかは不明ですが、これに似た話には、あの有名な「番丁皿屋敷」など、恨みが亡霊となり、夜な夜な鬼にあり出るという凄みある伝説が全国各地に多くありますが、兼六園では、美しい桜に生まれ変わり人々に愛される優雅な話になっています。」

 

 

 

(兼六園の井戸)

 

「兼六園全史」兼六園と作庭記の項には、現在園内の井戸が10箇所ある(内湧水2ヶ所也)、竹澤御殿絵図面(魚泡洞版)を見るに井戸の数が極めて多い。また、若水のかけひ(筧)も限りない。と書かれています。一般的には藩政初期の辰巳用水の完成により、金沢城の空堀は水濠になり、防衛上にも多大な役割を果たし、同時に城内の飲料水の供給という大きな役目も担った?と伝えられていますが、どうも、藩政期を通して、金沢城や竹澤御殿の飲料水は井戸だったようです。

 

(竹澤御殿図)

 

そして、特に成巽閣裏門西南の井戸は良井であったので、成巽閣ではこの水脈を辿って掘ったところ、これもまた良井であるとのことであると書かれています。

 

 

(成巽閣の裏・赤門)

 

石川県金沢城調査研究所所長の木越隆三木越隆三氏の「辰巳用水誕生の新説」によると、江戸時代の文献には、辰己用水が飲料水に使われたと云う記録がなく、飲料水は井戸であったとある。(平成21年(2009122日北国新聞投稿)

 

 

(今の兼六園から金沢城)

 

(つづく)

 

参考文献:「兼六園全史」編輯者 兼六園全史編纂委員会・石川県公園事務所  兼六園観光協会 昭和5112月発行「兼六園を読み解く」長山直治著 桂書房 200612月発行 「兼六園歳時記」下郷稔著・能登印刷出版部 平成53月発行 「図解庭師が読みとく作庭記」小埜雅章著 (株)学芸社 20085月 ほか


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