【金沢城玉泉院丸】
玉泉院丸の休憩所に掲示されている嘉永3年(1850)の絵図に“氷小屋”が描かれているのを知っていながら、万年5歳児の「チコちゃんに叱られ」そうですが、知ったかぶりをして調べてもいませんでした。それが今回の鼠多門の開門で気になりだし、ガイドの血が騒ぎ「金澤古蹟志」を紐解いていました。
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(玉泉院丸の氷小屋の図・嘉永3年の図・池側に手木足軽詰所跡)
金澤古蹟志の玉泉丸氷小屋には、この氷室は、旧藩中は藩侯の召上がらるため氷雪を貯ふる室にて、玉泉院丸の築山の麓に、二間に四間許の穴蔵を造り、戸室石にて積み立てたり。その氷室は手木足軽の主附にて、毎歳極寒の頃清潔たる積雲を箱詰にして、この室に納め、黟多を集め箱の廻りを詰め置き、六月朔日に取出し指上ぐる例なりしと云ふ。右氷室は、藩五世参議綱紀公の時命ぜられたる処にて、その以前は加州石川郡倉谷より進献すといへり。とあります。
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(現在の玉泉院丸休憩所・右側の建物の辺りは手木足軽詰所跡)
(その根拠は、貞享5年(元禄元年1678)6月に綱紀公が千宗室に玉泉院丸に作庭を命じ、9月には厩(寛文元年(1661)などを撤去して御亭の普請が進められていますので、この玉泉院丸庭園の新たな改修に元禄元年から着手していますので氷室の設置は、その流れの中で出来たと推測できます。)
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(いもり堀跡と玉泉院丸の一部図)
しかし、その玉泉院丸氷室の設置時期が5代藩主綱紀公の時期だという明確な証拠があるわけではなく、現在では、それより以前の加賀藩穴生の後藤家文書の「高石垣等之事」に、利常隠居の寛永16 年(1639)後、玉泉院丸に鼠多門や土蔵の普請が行われますが、「右御土蔵御出来之節氷室茂被仰付様被存候」とあり、玉泉院丸の土蔵完成の時期に氷室の設置を指示されたと読める記述も認められるそうです。だとすれば、利常または4代藩主光高公によって氷室の設置が指示された可能性もあり、玉泉院丸氷室の設置時期については再考の必要があると云われています。
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(玉泉院丸の五代綱紀公の石垣)
(氷室の規模は、冒頭の森田説でも書きましたが、二間四間の戸室石を積み立てた穴蔵なので、もちろん、加賀藩穴生の後藤家などが氷室の築造に関与しているものと思われ、お手本は、寛永4年(1627)に造営された京都仙洞御所の氷室「お冷やし」と呼ばれ氷室で、二間三間深さ4mの二段石造りの穴蔵(石階段付)と推測出来ます。玉泉院丸は二間四間の石造り穴蔵は京都仙洞御所の「お冷やし」と同規模であり、利常公の娘が京都の公家に入嫁したことや綱紀公の公家社会への書籍保護収集など、加賀藩と京都の公家社会とのつながりは深く、この「お冷やし」のことも加賀藩には伝わっていたと推測されます。)
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(玉泉院丸から鼠多門)
≪加賀藩手木足軽と雪貯蔵施設「氷室」≫Image may be NSFW.
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加賀藩には手木足軽という庭園を管理運営し氷室の主附役人がいました。藩の最下級兵士「足軽」の手木足軽が庭園管理の役目を担っています。その加賀藩手木足軽は、雪貯蔵施設
「氷室」を管理運営するために配置され、その結果として雪氷貯蔵と夏場の雪氷利用の取り扱いに高度な専門的技術を編み出します。
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(この辺りが氷小屋跡)
夏場の潤沢な雪氷利用(贈答品・接待・葬送など)を主業務とし、手木足軽は参勤交代では荷物運びを担う兼業で、これは加賀藩だけに存在で独特の専門職足軽として位置づけられていて、露地奉行の配下でした。元々は藩主お抱えの相撲取りで、寛永14年(1637)故あって金沢では相撲が停止になり、この時、藩主お召抱えの相撲組もなくなり、相撲取りも廃業しますが、その相撲取りに露地掛りに命ぜられ、これを手木足軽と呼んだという。
手木足軽になるためには「力持ち」で「大男」という「器量」が要求され、その来歴は、五十人相撲組で庭石運搬・庭園普請を行なうため要求された「力持ち」「大男」が平和な時代には軍事から離れますが、役割で大きな変化したのは、「氷室」の管理運営を担当したことが最も大きかったと思われます。
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(金澤古蹟志と森田柿園)
拙ブログ
勘太川③倉月用水??
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12295234817.html
玉泉院丸跡・・・新幹線にあわせて復元整備
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11741799529.html
氷室といえば湯涌、湯涌の氷室
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11129880235.html
氷室のまんじゅう
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-10575965869.html
”氷室の万頭”と”半夏生の蛸”
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11292082094.html
「氷室」は、冬期間の雪を氷室に貯え、“六月朔日氷室の日“に貯蔵雪氷を藩主へ供することを目的として設置されたもので、手木足軽は、その業務全般を担った大男達の足軽でした。今も金沢の湯涌では、伝統行事として冬に仕込んだ貯蔵雪氷を夏の暑い時期である旧暦6月朔日(現7月Ⅰ日)に氷室から切り出せれ、石川県知事、金沢市長、姉妹都市の東京の板橋区、目黒区の贈呈されています。
(なお、竹井巖氏の研究によると、今も伝えられている金沢から江戸の将軍家への献上のために雪氷が運ばれたかどうかについては、藩の公式文書で確認できないが、江戸に無いはずの雪が届けられていることや、伝えられる二重構造の桐長持ちなどからも、十分ありえた話であるとおっしゃっています。)
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参考文献:「金澤古積志」第6編巻16 金澤文化協会 森田柿園著 昭和8年8月十五日発行・「加
賀藩手木足軽と氷室に関する覚え書き」竹井 巖著(北陸大学紀要 第46号(2019年3月)抜刷ほか