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天下の書府④当代一流の学者と名工を招聘(その一)

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【加賀藩・金澤】

加賀藩では、前回にも書きましたが、5代藩主綱紀公多くの学者を招いていますが、学者の止まらず優れた職人も招聘しています。しかし、それ以前にも2代藩主利長公の時代には明の儒者王伯子を招き4代藩主光高公は、信長記を表した小瀬甫庵や儒者林羅山等、名工では、利家公が鋳物師の宮崎彦九郎、金工の後藤琢乗利常公は蒔絵師の初代五十嵐道甫等を招いた前例もありますが、長期政権で学問好きで博学な5代藩主綱紀公が徳川に次ぐ百万石の大名としての使命感金の力にモノを云わせ実現させたもので、後世、金澤に残された数多くの文化遺産が造られていますが、現在は金澤以外の人にはあまり知られていないのが残念です。

 

 

(令和291日付けで石川県立美術館の新館長に就任した元文化庁長官青柳正規氏の談話で、石川の美術風土は「伝統工芸の種類が非常に豊か。その一つの生活様式に組み込まれている。これが本当の文化なんです」。確かに陶芸や染織、漆芸、金工、木工と生活空間をまるごと築くことができる多様性がある。そして、いずれも奥が深い。ただ惜しいかな、足りないものがある、という。「これだけいいものがあるんだから、堂々と自信を持って広めていこうじゃないか、ということ。自信不足です。海外で展覧会をやれば成功する。そのことで自信を築くきっかけをつくりたい」と述べています。)

(令和2912日北國新聞に掲載されたものを引用)

 

 

 

もっとも盛んだったのは、綱紀公の時代79年間に、前出の木下順庵は室鳩巣はじめ儒学者松永永三、五十嵐剛伯、沢田宗竪、木下敬簡、岡島右梁、中泉祐信、小島景范、木下新蔵等、有職故実(ゆうそくこじつ)の平田内匠、伊勢監物、水島右近、神道家の田中一閑、国学の菅真静、医学・本草学の稲若水など学者は多方面に渡ったと云われています。

 

 

 

本草学者の稲若水は、水戸光圀の招きを断り、元禄3年(1693金沢に来て、人持組6,000石の多賀直方の一族と云われている友人の多賀平太夫を介して綱紀公に仕え、元禄8年(1695)当時、十間町に住み薬師商売人の取り締まりにあたっていたといいます。また、新井白石綱紀公に書を送り義弟の禄仕を懇願しています。この時代は文人、学者で禄仕を願うものはあとを断たなかったと云われています。

 

後に藩士で“越登加三州志”を著した富田景周「西より東より、逢掖(ほうえき)異能の士、軾(しょく)を結んで北上し、風を嚮(むこ)ふて聚(あつま)る」と評しているそうです。(「燕台風雅」より)

逢掖(ほうえき)異能の士:個性的な儒者・軾(しょく)を結んで:地面に膝(ひざ)をついて?

 

稲若水は、「庶物類纂」の著作で知られています。正編は中国の諸書から物産、博物の名称、形状,産地の記事を抜粋したもので、増補は日本国内の産物の実態を記したものです。綱紀公の命令で稲生若水が著述に着手したが、正徳5 (1715) 年、362 (正編) までで病没しますが、その後加賀藩主がこれを江戸幕府に献上し、享保 19年(1734)、徳川吉宗が稲若水の門人丹羽正伯、内山覚神、稲生新助らにこれを増補させ、元文3 年(1738)、638巻を補って 1000巻を完成させ、さらに延享4 年(1747)に続修分 54巻が完成させました。書物は、中国の古典籍などから、動物・植物・鉱物についての記事を集め、分類して実物により検証したものです。増補分は日本を中心として編纂した日本での本草書の大著です。)

 

また、綱紀公の時代には、加賀藩の工が完成した時代でもありました。当時は工藝という言葉はありませんが、3代藩主利常公以来の名工招聘に加えて、金工職人、漆工職人、蒔絵師、染織人、大工、陶工などを招き、京都における王朝的桃山工藝の崩壊を金沢において再生・保存し、金沢を江戸時代における一大工房にしたといっても過言ではないと云われています。明治になり工藝と云われる様になって以来、貴族的工藝と云われています。

 

貴族的工用と美を備えた民衆的工藝に対して、富貴の人々のために製作される作品であり、民衆の生活には縁遠い品物であり上等品で、美術品と呼ばれることが多い。技巧は丹念であり、製作には多量な時間と費用を要するもの)

 

 

拙ブログ

加賀藩の文化政策

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11582317263.html

工藝って何!?

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-12119955765.html

 

寛文・元禄期に招かれた名工は、金工では江戸の上後藤家(後藤演乗、悦乗)からと京の下後藤家(後藤程乗)から1年交替で金沢に来て御用職人となり職人の指導と統制にあたったと云われています。特に京の程乗綱紀公の信任も厚く、蓮池内に屋敷を賜り、毎日のように登城して(とぎ)の衆に加わったと云われています。他に鋳物師の村山四郎兵衛、蒔絵師の椎原市太夫、陶工の初代大樋長左衛門、染色職人の茜屋理右衛門、鋳物師の二代宮崎寒雉、画人では、古くは本阿弥光二の一族久住守景、俵屋宗雪など、綱紀公の頃には、江戸から狩野友益と子の伯円、即譽は招かれて、屋敷地を与えられ扶持も賜っています。

 

 

夕顔亭➁露地

https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11989694990.html

 

 

参考文献:「加賀百万石」田中喜男著 株式会社教育社 19804月発行・オンライン百科事典(Wikipedia:ウィキペディア)北國新聞など


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