【加賀藩・金澤】
初代藩主利家公の頃、城内で武具類の制作、補修にあたっていましたが、2代藩主利長公が藩士井上権左衛門の個人的な技藝能力に目がとまり、武具の修理や管理をさせています。元和期に入ると3代藩主前田利常公が井上権左衛門を御細工所奉行に任命し、足軽・御細工者を従えて武具類の管理と修復の任に当たりました。これが御細工所の始まりです。正保3年(1646)権左衛門没後、御細工所の機構が整備され、貞享4年(1687)の格式が改められる前は、従来は井上権左衛門一人の配下にあった武具御土蔵、御細工、弓矢、鉄砲の四つの部署に分かれていたのを、弓矢は射手頭、鉄砲は異風頭の支配になり、武具御土蔵・御細工を支配するようになります。
(武具御土蔵・御細工奉行の役職として上奉行(岡島五兵衛・山本久左衛門)下奉行(才所治郎太夫・玉木彦左衛門)横目が置かれ、上奉行は藩主に武具等の好みを聞き制作を命ずる役目と従来の武具の管理、修理、補充に当り、下奉行は御細工者の管理、欠員補充、勤務評定などを行い、横目は井上権左衛門が作らせた品々を点検し新任の奉行へ引き渡す役目でした。)
初期は武具御土蔵・御細工奉行の兼業で武具類の管理と修理補充を主な任務としていましたが、寛文元年(1661)綱紀公が御入国前後から場所を転々とした後、新丸の河北門脇に移り、その後、宝暦の大火で新丸の御細工所も焼け出され、これを機に堂形の厩の辺りに移ります。
(寛文9年(1669)には、綱紀公は直々に藩政に乗り出し、以来様々な藩政改革を行ってきました天和3年(1683)や貞享3年(1686)の家臣職制の序列を整備し、大年寄4人(本多政長、前田孝貞、奥村庸礼、奥村時成)を設け、やめていた家老を復活、人持組を7組と定め、人持組頭(前田直作、長尚連、横山英盛)を含め藩政最高機関の職制を定めます。大年寄も人持組頭で七手頭としますが、後に元禄3年(1690)に村井親長を加えて同列とし、以後、加賀八家と云うようになりました。)
貞享4年(1687)には、綱紀公は武具御土蔵・御細工奉行の上奉行と下奉行を廃止し、新たに御細工奉行3名を任命し若年寄の支配下に置き、従来の武具御土蔵と兼任を御細工所専任となります。奉行の格付けは「頭並」とし、200石~300石の者が就任し、他に役料100石が与えられています。享保5年(1720)には、奉行1名が死亡してから補充されず2名のままになっています。
加賀藩の御細工所は、3代利常公が20年で基礎をつくり、5代綱紀公が35年かけて組織や活動の充実に努めたと云われていますが、その間には大きな転換がありました。徳川幕府による封建制度が確立し、時代は武断主義から文治主義へ、5代藩主綱紀公の代には、謀反を疑う幕府の警戒を和らげるため、武具類の修理で培われた技藝技術で工藝品の制作・補修に転換させ、藩主や家族が日常使用する調度品や将軍や公家等への献上品の制作などにシフトし、極めて質の高い象嵌や蒔絵などの工藝品を生み出しました。
(貞享4年(1687)当時の御細工所勤務の細工人の数は明らかではないが、元禄元年(1688)では細工奉行の下に3人の細工人小頭を置き、元禄3年には1人追加し4人の小頭。細工人総数は50余人に達したという。細工人は4グループに分かれ1グループ12人から15人、これを小頭1人が裁許しています。細工人には能役者を兼帯させ、工藝と能そして茶道を連帯、工藝・幽玄・わびの一体化による工藝、工藝職人(細工人)を生んでいます。)
しかし、桃山・寛永の技藝を墨守するあまり、常に職人の技術やデザインが統制され、金工では上後藤家(江戸)や下後藤家(京)が隔年交替で金沢に来て細工人を統制し、新規の技術もデザイン開発も防止したと伝えられています。
拙ブログ
利常公の孫“綱紀公の文化政策”御細工所➀
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11585736675.html
”綱紀公と文化政策“御細工所➁
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11587451645.html
御細工所③藩政期から明治へ
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11595625108.html
詳しくは、御細工所➀➁③に記載していますが、初期綱紀公が力を入れたのは象嵌、具足、絵画、針細工、紙で有ったと云われています。
加賀象嵌
加賀藩2代藩主前田利長公が、京都より後藤琢乗を招き、装剣技術を開発したのが起源で、元禄時代の金属象嵌は、加飾の優れた作品が制作されています。金属面に象嵌する紋様部分をタガネで刻下げて底部を広げ、そして紋様に別の色の金属をはめ込み、上から鎚とタガネで打ちならします。 打ち込んだ紋金が下の部分に延び広がり抜け落ちないように固定される「平象眼」の技法が特徴です。藩政初期には、武具を中心に隆盛を極め、特に加賀象嵌鐙[あぶみ]は、天下の名品とされ幕府諸大名に進献されています。
加賀具足
甲冑(鎧と兜)とも言われ、頭・胴・手・足の各部を守る装備が「具足(そなえたりる・十分に備わっている)」との言葉に由来し、鎌倉時代以降から甲冑を具足と呼ぶ資料が見られます。籠手などの副次的な防具は小具足とも呼びます。加賀具足は、変化に富んだ鉄や革札、切鉄や銀蠟流し、金唐革で飾り、派手な色糸を組交ぜにして威し立て、他の家中のものにくらべると、技巧を凝凝らした装飾加剰で華麗ではあるが、威圧感に乏しいといわれています。
加賀奉書
加賀では、能美、石川、河北の3郡を中心として漉き出された奉書紙で、前田利家公が領主となってから美術工藝が奨励され、それに関連して製紙も盛んになりました。加賀奉書が、桂離宮の茶室「松琴亭」の床張付けと襖の市松模様の意匠材料に使用されているのは有名。この伝統的製法は、今も金沢市二俣町で受け継がれています。
拙ブログ
昔の金沢工芸職人➀本当は・・・?
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11962526195.html
百工比照
綱紀公のコレクションといえば図書の蒐集が有名ですが、これに次ぐ重要な業績は、当時の
における工藝品をはじめ各種手工業品、手工業資料の蒐集があります。「百工比照」と命名されたコレクションで、金工、紙、織物、染色、打ち糸、髹漆(きゅうしつ)、蒔絵、木、竹、革など20種におよび4棹の箪笥(たんす)におさめられています。このなかで象嵌・蒔絵・打ち糸などの工藝品サンプルは細工人・御用職人を動員して製作されたものと伝えられています。
参考文献:「加賀百万石」田中喜男著 株式会社教育社 1980年4月発行・「加賀藩御細工所の研究㈠」金沢美術工芸大学 平成元年11月発行・「金沢の工芸土壌」小松喨一著 北國新聞社2012・8月発行・オンライン百科事典(Wikipedia:ウィキペディア)北國新聞など