【金澤の藩政期】
藩政期の町人世界を調べたくて、分かり易く書かれものを探していました。何年か前、ダウンロードして、読んでいなかった昭和7年(1932)発行の氏家栄太郎著「昔の金澤」をパラパラとめくっていたら、緒言(しょげん・ちょげん)という言葉に出会いました。なんでも、その言葉は“論説の糸口、前書き、はしがき、序文”と云った類いの言葉で、私はセッカチなので普段は新しい本も昔の本も本文から読み面白かったら、始めの序文に戻り、後書きを読む習慣から、緒言という言葉には気づかなかったのか?初めて知った言葉でした。
この言葉に引っ掛かり、今回は緒言から読むことしました。ところがこれが昭和に書かれたものかと思うくらい難解で、難しい漢字続出。辞書を引きながら何んとか読むだけは読みましたが、内容が良く分かりません。何回か読んでいるうちに昭和の初めに生きた金沢の郷土史家の郷土愛とふるさと贔屓に心が動き、町人の世界を後回しにします。
緒言(ちょげん)
郷土金沢市は北日本なる北陸道の一大都邑(とゆう)で、維新前は勿論明治初めまでは三都に亞(つ)ぐ都市であったが、時勢の変遷や気候の関係から発展が遅れ遂に名古屋その他の都市に落伍するに至った。
然(しか)し猶(なお)もと三都に亞(つ)げる大都市の俤(おもかげ)に依然として存在するのみか、輓近(ばんきん・近頃)産業民力の発展駸々(しんしん・馬が早く走る様)たるものあって漸次舊位を挽回する域に進みつゝある。
今此の大都市の舊輪郭を誌すに当たり、先ず第一人者に、その尤も密接に関係ある社会の組織と人情の概略を述べ、更に慣習に及ばさんとするものである。
金沢は加賀、能登、越中三國の太守前田候提封(ていほう)百萬石治城の地で藩祖高徳公(利家公)以来歴代君主仁慈を施し民を撫愛すること久しく、且特に産業を将勤し國利を興し民福を進めた。その徳化が寒村僻陬に普及したので治平三百年封彊安寧四民その恵澤を仰がざるなきに至る。
封内は山川海湖、動植魚介充備して海、山を鑄る(いる)の利、五穀豊饒果禾餘り散りて他地方の供給を仰かすして百貨が充足した。従って万民豊楽、所謂途に落ちたる拾はず夜鎖さずして眠り悠々三百年間の泰平を謳歌し来たのである。
山水秀霊の気を享けて民情は温厚、風俗は淳朴恭便節義を重んじ英敏忍耐に富み、分を守りて才能に誇らず勇気謄略あれども粗暴ならず、謙譲人と争わずして克く自らを韜誨(とうかい・本心を包み隠す)する。従って一面進取の気に乏しく退嬰的(たいえいてき・何かにつけてしりごみする)な憾はあるが、人に接する極めて親切で、軽薄、驕慢、懶怠(なまけ)、野鄙(やひ・下品でいやしい)、風なく所謂”衣食足りて礼節を識る”の概がある。
男女共気宇は高尚温和に容姿は閑雅(かんが・風流しとやか)に、殊に女子は美人系に属し端麗、清艶、温良、貞淑である。
郷土の歴史や風土や人物まで、読めない漢字を並べて“ベタ褒め”ですが、やっぱり難しい、ひがみ根性かもしれないが、漢字は大昔中国人のエリートが複雑にして庶民が読めないように創ったと聞いた事がありますが、昭和初めまでか、難しい漢字と文体が流行ったのか、勉強しない者は読むなということなのか・・・?
確か、昔、反対の事が書かれていた本を読んだ気がして調べると「卯辰山開拓」ついて調べ
た時、福澤諭吉の「西洋事情」の小引(しょういん・簡単なまえがき)に、現代文に訳すと“ある人が私に、この本を漢儒の某先生に正刪(せいさん・けずったり訂正したり)を加えれば、一層の善美をつくし永久の手本となると云われ、私は笑って否定した”と福澤諭吉が書かれていますが、実際には「願くは之を漢儒某先生に謀り正刪を加へば、・・・・・余笑って云く、否ず」などと有り、当時としては分かり易くはなっていたのでしょうか?今の私達には、かなり読みつらい文章です。
つづく
参考文献:「昔の金澤」氏家栄太郎著 金澤文化協会 昭和7年5月発行・「西洋事情」福澤諭吉著 尚古堂 慶応2年丙寅初冬発行