【金澤・藩政期】
藩政初期、加賀藩では没落した朝倉家や北条家、そして米沢藩等の優れた武士が集められ、荒子以来の藩士と藩主前田家の出身地尾張から集められた商人や土着の人々で町が形成され、さらに慶安4年(1651)に開始された改作仕法は、武士と農民の困窮を救済する目的で、藩士の知行地直接支配を禁止し検地を精密化され、村支配は藩の改作奉行と有力農民の十村の支配下に置かれます。藩士は知行地に住むこともなくなり城下に移住し、金沢城を核に武家地や周りに町人地・寺社地を配し、消費社会の成熟とともに農産物の生産地や鉱業・工業の製造する職人が集住し発展します。
(町年寄の風格の残す町家)
(十村制度は:藩政期、加賀藩3代藩主前田利常公が制定した農政制度で、地方の有力な農民を十村として懐柔し、いわば現場監督として利用することで、農村全体を管理監督し徴税を円滑に進める制度でした。)
町人は、”商“の商人身分、”工“の職人身分と合わせて町人身分と云われ、当初は城下町建設で大工や大鋸・壁職人・鍛冶職人と工が優遇され、お城の近く(材木町等)に居住し無税の拝領地を賜ります。そのほか桶、桧物、染、塗、皮職人が優遇されますが、城下町の建設が終わると、変わって、経済的な発展のため商人が他国から招かれ居住地は無税の拝領地を賜りました。
(城下町では商人や職人も土地と居宅がセットで所有するものが“町人”とされ、長屋住まいでは商いや手工業に携わっていても法制的には“町人”として認められませんでした。)
(藩政期の町家の風格を残す尾張町の町家)
藩政期の商人は、店舗と居宅を有したものをいい、藩主の御用達より始まり、そうじて藩士が顧客でした。その顧客の武家を”お出入り先”または”御屋敷”と呼び、代々継承し連続していました。御屋敷側も信用し、商人もまた誠実を旨とし出入りします。商人は富裕な武家を顧客にしていたので商いは安定していて、他の地方商人のように営利に汲々とするのではなく鷹揚に構えていたと云います。
(加賀藩の商人は金が貯まったら美術品、不動産、商売に分散するという「財産三分法」を旨とし、おおむね商売は番頭以下に任せ、主人は趣味に明け暮れ、その怠慢が明治維新の武家の瓦解で大打撃を被ります。長年の習慣から今日云うところの”進取の気性”に乏しく商売の振興を忘れていたと云われています。)
(藩政期の風格を残す旧袋町の町家)
各町格の成立と経緯 領主への貢献度で町人や町々の序列がありました。
本町:本町人は藩主の荷物・人を運搬し、人足を提供する町かどうかで決まり、藩主の荷物・人の運搬のため運搬用の馬(伝馬)66頭を常に用意し要請が有ればいつでも出動しなければならなかったのです。また、町夫と云って人足を12,000人負担しました。惣構堀に植えた竹を雪の降る前に縄を巻、春になると縄を切り解くことや、津幡から野々市の次送り人足、公用荷の荷づくり、年貢米の米俵を堂形の蔵へ運び入れ、また、両大橋(浅野川・犀川)や主要な橋の普請、城内の多様の作業のために使われていますが、後に代銀になっています。 (最も高いのは尾張町。次は中町・橋場町・上堤町・下堤町。3番目は博労町・南町・野々市町(犀川川原に有った町?)・川中町・片町・川南町。4番目は山崎町・十間町・近江二番町・石浦町・木新保町(上)・安江町。5番目は寺町・後町・森下町・新竪町・博労町・近江一番町。6番目は材木町(八坂出口~徒衆町出口)。7番目は新町・袋町。8番目は大鋸町・刀鍛冶町・魚町・材木町(徒衆町~備中殿町出口)・枯木町。9番目は材木町(備中殿町出口~油屋まで)。10番目は袋後片原町・堀端片町・河原町・立町(上)・材木町(成瀬殿町出口~八坂出口)・野町一・二丁目。11番目は立町(下)・材木町(油屋~館紺屋宅)・材木町(館紺屋宅~亥久屋宅)・塩屋町。12番目は新足中町・近江三番町・木蔵町・材木町(鉄砲屋敷~成瀬殿出口)野町三~五丁目。13番目は野町六丁目。その他西町と木蔵片町があるが負担の程度は分からない。)承応3年(1654)には二十七ヶ所、元禄9年(1696)には三十九ヶ所、天明5年には四十ヶ所、明治元年(1868)には八十一ヶ所に増加しています。 |
(現在の町家)
七ヶ所:藩主の人足だけを負担する町で、2,000人を負担しました。承応3年(1654)に成立し、明暦3年(1657)に鍛冶町・安江木町・四丁木町・石引町・五枚町・傳馬町・森下金屋町の七ヶ所であったが、元禄9年(1696)には一三ヶ所になり、文化期には一八ヶ所になっています。 |
(現在の町家)
地子町:どちらも負担しないので領主から土地を使わせて貰っているので地子(借地料-税)を払うので地子町といいます。地子町組合頭、番頭の給銀や、町会所牢番人扶持などを地子銀として1軒当たり230匁ほど集めていたようです。 |
相対請地:17世紀になると領内の貧しい人々が城下に流れてきて都市の下層民になります。当時、城下では地価が高く下層民の手が届くところがなく、城下町に続く農地を入手しようとしたが、その頃は、土地の売買が禁じられていましたが、城下町には日雇いのような労働力がどうしても必要であり、万治4年(1661)藩主は城下町つづきの農地を持つ農民との間で、納得ずくで土地を貸し借りが許されました。初めは、これらに人々の身分は農民とされていました。住人は年貢に相当する分を町奉行を通し各村へ銀を納めていまいした。 |
(現在の町家)
寺社門前地:寺院、神社の境内に出来た町で初めは寺社奉行支配でした。住人は城下町や農村出身の下層民でしたが、藩は支配に都合がいいことから町奉行支配に移します。慶安2年(1649)町中の御門前町西御坊町が町奉行支配になり、宝円寺門前、法船寺門前は火災で焼失し移転の際に出来た町は町奉行支配に、元禄時代には浄住寺門前、高巌寺門前、東末寺門前は町奉行支配になり、明治元年(1868)には902軒の門前町住民になっていました。 |
町の税負担と町組織
町人地は、上記のように本町、七ヶ所、地子町、相対請地、寺社門前町に区別され、租税負担は本町では役銀・夫役銀・肝煎・番徒扶銀などがあります。役銀は、伝馬役、本町木戸等普請入用、上使宿普請料、横目肝煎、伝馬肝煎等扶持銀、町会所牢番人扶持米、犀川・浅野川両大橋入費等のために課せられたものです。
役銀には、➊家の前口に比例して集める小間役、(表間口4間で約55匁を負担。そのため、間口を狭くして奥行を深くする家が多かったと云われています。)❷1戸毎に1定の割合で集める役間役、❸貧富、大小にかかわらず同額を集める面割役の3種類がありました。
(本町の夫役銀は、上記に書いたように人夫仕事の代銀のことで、藩政期初め、道路、橋等の営繕をするために必要な役夫を集めていた大工手伝の代わりに銀で納めました。人夫を出すのではなく、お金にして1人あたり5分ずつ銀納しました。本町では小間役同様、家の間口で割り当てられ、負担銀は時と町によって違ったようです。)
拙ブログ
藩政期の金沢の町格
https://ameblo.jp/kanazawa-saihakken/entry-11928137734.html
つづく
参考文献:「昔の金澤」氏家栄太郎著 金澤文化協会 昭和7年5月発行 「金沢町人の世界」田中喜男著 国書刊行会 昭和63年5月発行ほか